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鹿路悠香です

8/27日記

土日は読まず今日読み終えた。>杳子

三者てゆか対話の相手(=自身)が視線や意識においての対象との関係をどこに置いてるか、みたいな、そんな話でもありつつ別に"現実的"であったりドライであったり必要以上に突き放した露悪さでない、そんなとこもあるよねっていう実際ありうるいくらかの後ろめたさも含んである感じでよかった。

極端に走らずそんな感じで揺れ動きながらあったらいいと思う。間違いではないけど、間違えてるかもって不安もありつつ揺れながらも選択して、間違え続けてくんだし。

そうじゃないって言うのなら正解が要るよ。っていまは思ってる。自分が間違え続けてることを肯定したいわけじゃないんだけど。進みたいよ。

 

(責任押し付けてる感もある)片親の甥がいる。

昨日は久しぶりに2人で出かけて身体動かして、それだけで役目果たしたって気持ち大きくなったのか、姉(甥の親)と母(甥の祖母)との間で押し付け合いになってる〜って、母にこぼしてしまた。態度に出さずとも、悪く響いてるだろうなって思う。

姉も母も、もちろん甥も孤立してしまわないようにあれたらいいな。ってそう思いつつ自分はきれいな場所にいるだけじゃなく、当事者であるように。そう居ようと思っています。

諸問題も時間かけて快方に向かえるようしつつ、誰しもを甥とごちゃ混ぜにして並べないようにしつつ。

何もできないので、何か与えられるわけじゃないので、極端に決めつけずに、備えられてたらいいな。

死にたいけど最悪なまま生きていきます。おやすみ。

8/24日記

先週くらいから小説など読み始めて、それまではずっと二年間?かそれ以上ラジオ番組で頭の中を文字とかで埋め尽くしてた。

まとまってつらなりのある言葉たち。例えばついったーで連続したツイートもそうなんだろうけどでもそれは散りやすくて、小説ってそれとは違ってきちんと頭にまとまりってゆか流れを植えてくれるなって感あった。浮き足立たないようにしてくれるってゆーか。

読むようになって少しずつ、頭の中の肥大した意識をするーして口をはじめとした体が先に動けたりしてる感はあって、今日それが意識に追いついて来た。意識に到達しないほうがよかったんだけど。頭に堰ができた、って喜んで浮かれつつその浮かんだワードがまとわりついてきてまた邪魔だなって思ったりしてる。

 

今日は古井由吉の杳子読み始めた。

その在る様の表し方が馴染んで、それが人物描写のツボにもハマってキャラ萌えラノベかよって思いつつ読んでたけど、途中から情景だの状況だの浮かべるときに実際対面したことのある特定の人を当てはめて想像して読むようになってしまって、面白く読みはしてるんだけど、人を知ってる都合のいい枠に当てはめて読んでる自分がすごくやになってきた。おしまい。おやすみなさい。

8/22日記

などと言いつつ資格勉強も二段階向こうに置いて押しのけて隙間開けてさらに置いておいてしつつ今は小説読むなどに凝ったりしてるけど言語能力は向上していません。

今日も先週から続く読書熱継続させて文字読んでた。

大阪のイケアがよく登場する本読んで、一度しか行ったことはないけど、二人してバスに乗って行って見て回ってご飯食べてまたバスに乗って帰ってきたりなんかってことをよくも楽しんでできてたなって思って、

その相手の住んでた場所を最寄駅からグーグルマップのやつで思い出しつつ辿ったりしてた。

しつつ、相手のフェイスブック垢を毎度おなじみのネットストーキングでのぞき見ようかと思ったら既に相互フォローで久しぶりの投稿が写真付きで1日以内にあってなんか実感浮かび上がって、時間は進んでるんだなぁって(とまってるグロい自分目線で)感じたりしてた。

って言ってるうちにも時間も物事も進んだ。

僕はまたつまらない人間へと閉じていくことで自分を守った。おしまい。って拗ねるのもキショイし。やだなーって思う。自分のことばっか感じて考えてるよ。やだね。居なくなってしまいたい。

 

それが狙い通りでなくとも、相手に幸福感を感じて欲しい。笑ったりして欲しい。不快感を覚えることが少なくなって欲しい。

とかなんとか頭の中で言い訳のようにキャッチフレーズやスローガンを掲げて、何か失敗するとまたそれに囚われてただの音の並びを唱えて唱えて自罰したつもりになってそれを免罪符にする。反省する材料自覚できてますから〜って。死にたいね。

意識を遠くに離したいね。人のなかで殻破りたいね。今までもそうやって学ぶためって口実で犠牲者増やしてきたけどね。それもまた動かないための言い訳だね。やだね。犠牲者って言い方も自意識過剰だし。存在してんのがやだよーー。

もう人と深く関わることはやめようと、決意まではいかなくとも、ふんわりと思って過ごしてたけれど、きっかけがあればのめり込んでいっちゃうもので、ぐるぐるの渦の中にいる。

 

何を言えばいいのかわからなくて、気味の悪い生身の地蔵みたいに、ただじっと存在してる。

相手がうまくいかない状況にあって、それを解決する力も、緩和させる技術も、気持ちを強くさせるように振る舞える人格も持ってない。

持っていないと自分で思うってことは、それはその状況や相手を諦めてるってことなのかもしれない。

自分でもどう思ってるのか、どう感じてるのかがわからない。

信じたい方向、願う方向だけを見て、そこに近づこうとするけれど、何もやれてない実感のなさや、相手のつらがる様子を感じる痛みで、迷いが生まれてしまう。

何かができると思うこと自体が思い上がりなのかもしれないとも思う。

実際僕にできる事は、思いを言葉や行動にして伝えようとすることだけで、それがなにかの糸口になるかもしれないけれど、結局は自身のことは自身で助かるものなんだと思ってる。外的要因の変化も大きいんだろうけど。

伝え方もわからない。けど伝わることはあって、それがどう伝わってるのかはわからないけど、本意だったり不本意だったりしてるんだろうと感じる。それも不確かで、時間ややりとりの経過の中で相手の気持ちを軽くさせたり、重く縛ったりしてるんだと思う。

っていうメモ。

嫌いの例

親しみやすさの強要を感じることがある

受け入れられているヤツですよ,あたたかみのあるポジティブのシンボルですよっていう感じのやつ

判断してもらうことをすっとばして、通り過ぎていないのに、既に過程を含んで浸透していて、善良で、無害で、無条件に無抵抗に心に侵入させるべきだって、そういう存在になろうとしてるやつ、いる(と感じる)

1つずつ、反発もすりゃ好感もつこともある、その実際を経ずに、用意された物語と、反射的な記号の組み合わせで、

"そうあるべき"ものとしていつのまにか君臨させるの。

嫌いな安易なツッコミワードの中の1つの、「誰やねん」ってやつ

そういうお人形さんにこそ、浴びせたもれと思う。

好きにすりゃいいけど。

深刻さのない気軽な叔父ポジションから見る、1つ未満のサンプルから思ったり感じる男児

小3で9歳、大人の反応見てかしらんけど、話題に出すキャラクターはドラえもんクレしんに出てるらへん。

クレしんみたいな主人公であるからこそ大目に見られる破天荒さみたいなものをなぞることで、何かしらの自尊だとかを発達させていってんのかなーって、眺めつつ思ってはいたけど

ただ真似るうちに興奮が増してハイになれることが楽しさのブースターだったりすんのかなって今日思った。

高揚感あったよなーみたいな。

 

子どもと居て、ほめる,叱る,一緒に楽しむ,話を聞くなど、肯定するのに限らず受け止めて受け入れ続けること、1人で向かい合う中ではしんどいんだろうなって感じる。

向かい合いきれずに気持ちのチャネルを閉じてしまうことも、許されて然るべきだろうとは思う。

そういったときのために、もう1人の親や祖父母,地域社会がフォロー態勢に入れるような仕組みが、完璧ではないにしてもあったんだと思うけど、ワンオペってのはムリだろうって、出来ても削られるものが多いって感じる。

よくわからんけど、生きてこそ得られる何がしかを見出してくれるようになったらいいなー。