p

鹿路悠香です

もう人と深く関わることはやめようと、決意まではいかなくとも、ふんわりと思って過ごしてたけれど、きっかけがあればのめり込んでいっちゃうもので、ぐるぐるの渦の中にいる。

 

何を言えばいいのかわからなくて、気味の悪い生身の地蔵みたいに、ただじっと存在してる。

相手がうまくいかない状況にあって、それを解決する力も、緩和させる技術も、気持ちを強くさせるように振る舞える人格も持ってない。

持っていないと自分で思うってことは、それはその状況や相手を諦めてるってことなのかもしれない。

自分でもどう思ってるのか、どう感じてるのかがわからない。

信じたい方向、願う方向だけを見て、そこに近づこうとするけれど、何もやれてない実感のなさや、相手のつらがる様子を感じる痛みで、迷いが生まれてしまう。

何かができると思うこと自体が思い上がりなのかもしれないとも思う。

実際僕にできる事は、思いを言葉や行動にして伝えようとすることだけで、それがなにかの糸口になるかもしれないけれど、結局は自身のことは自身で助かるものなんだと思ってる。外的要因の変化も大きいんだろうけど。

伝え方もわからない。けど伝わることはあって、それがどう伝わってるのかはわからないけど、本意だったり不本意だったりしてるんだろうと感じる。それも不確かで、時間ややりとりの経過の中で相手の気持ちを軽くさせたり、重く縛ったりしてるんだと思う。

っていうメモ。

嫌いの例

親しみやすさの強要を感じることがある

受け入れられているヤツですよ,あたたかみのあるポジティブのシンボルですよっていう感じのやつ

判断してもらうことをすっとばして、通り過ぎていないのに、既に過程を含んで浸透していて、善良で、無害で、無条件に無抵抗に心に侵入させるべきだって、そういう存在になろうとしてるやつ、いる(と感じる)

1つずつ、反発もすりゃ好感もつこともある、その実際を経ずに、用意された物語と、反射的な記号の組み合わせで、

"そうあるべき"ものとしていつのまにか君臨させるの。

嫌いな安易なツッコミワードの中の1つの、「誰やねん」ってやつ

そういうお人形さんにこそ、浴びせたもれと思う。

好きにすりゃいいけど。

深刻さのない気軽な叔父ポジションから見る、1つ未満のサンプルから思ったり感じる男児

小3で9歳、大人の反応見てかしらんけど、話題に出すキャラクターはドラえもんクレしんに出てるらへん。

クレしんみたいな主人公であるからこそ大目に見られる破天荒さみたいなものをなぞることで、何かしらの自尊だとかを発達させていってんのかなーって、眺めつつ思ってはいたけど

ただ真似るうちに興奮が増してハイになれることが楽しさのブースターだったりすんのかなって今日思った。

高揚感あったよなーみたいな。

 

子どもと居て、ほめる,叱る,一緒に楽しむ,話を聞くなど、肯定するのに限らず受け止めて受け入れ続けること、1人で向かい合う中ではしんどいんだろうなって感じる。

向かい合いきれずに気持ちのチャネルを閉じてしまうことも、許されて然るべきだろうとは思う。

そういったときのために、もう1人の親や祖父母,地域社会がフォロー態勢に入れるような仕組みが、完璧ではないにしてもあったんだと思うけど、ワンオペってのはムリだろうって、出来ても削られるものが多いって感じる。

よくわからんけど、生きてこそ得られる何がしかを見出してくれるようになったらいいなー。

自分の存在は認めてんだけど、自分の思考だとか感情や反応を疑うクセがついてきてると思いきや、それが正しく行われてないのにも関わらずそれに凝りすぎてて視野が狭まってきてる感を覚えた。

1人で野球やってる雑魚ピッチャー感ある。

やっぱ一人の人間の記憶の引き出しから適したものを引っ張り出したりだとかとかの処理能力って、高みを目指すことはできても天井見えてるよね、って思った。

止まったり戻ったりするにしろ、生きることは死ぬまで続けていくんだけど。

 

人を尊んだり敬ったりすること

それにとらわれ過ぎないこと

を基礎に置いて外界を認識したい。

あとは過信とか驕りとか、すぐ出てくるし。

愚かなものどものせいにしたがってしまうけど、

愚かなものではなくて

複合的に構成されて表出したものを愚かと認識(評価)した事象

のことだし、たぶん他者を自分より下に置きたがる欲求が作動してんだろなって思う。クソでしかない。

 

自分にできうることなんてものは本当に

自分をどう動かすか以上のものでないのはわかってるつもりなんだけど、

本心というか芯から納得や根付きがなってない。まだまだ。

 

胃の痛みも、その原因のその原因のその原因など点検してみるものの

最近はわっかんなくてなんもかもの発端を生存本能からくるものだってことにして納得させてる。

こんなふうなときってやっぱ、

目の前のことに集中しろ

の一言がほんとにそれなんだろな。ハイ。

 

快適な日常を過ごすことを阻害してるのって、

胃の痛みをもたらす外界ではなくって、

胃の痛みを覚えてそれに囚われる自分のステージの低さなんだろーなー

根性論っぽさあるけど、わからん。今日はヤメる。

自罰的になったってそれすなわち克服ではないんだもんな。

我慢する対象を選ぶことだとか、人を頼る場面だとかがわからなさ過ぎてんじゃねーかなみたいな。わからん。

人と話そう。なの?

パスピエのオンジエア聞いて、詩が簡易だな、でもサビはきれいだな、前は好きだったよなこの曲って思ったり

星野源の知らない聞いて、今は知らないけど少なくともこの時のこの人はスピーカーの向こうで対等に居てくれてるなって思ったりしてた。

 

ダイソーの競合店で買い物した。

レジにつくと、お客さん対応してるおばあさん店員がレジ操作がままならず混乱してて、同僚に叱られてて、悲しくなった。

悲しく思うのも傲慢で敬意のないことなんだけど、変な、ありがちな想像をしてしまってた。

この人もこれまで何十年過ごしてきてて、思わず顔が緩んだりするようなことや、

胸がいっぱいになるようなこと、誇らしい瞬間だとか、経てきてたはずで、

なんでなんだろうって。

自分に置き換える謙虚さは持ち得ておらず、人格がクソなので母に置き換えかけたりしてしまったりしてた。

イヤな想像なので具体性待たせなかったけど。

レジのおばあさんにはとりあえずいつも通りの感じで対応した。

 

日々は人それぞれのレンズを通してちがった光であらわれてて、

それは受容体次第でいかようにも画素数や彩度やツンときたりジワっと染みたり刺激される神経や、香りやぬくみや肌触り、湿度など皮膚感覚だとかも、名称未設定のままタグ付けできるものであるんだろうとは思うけれど。

なんだかわかんないなっていう地点にいます。

何かにしてしまうことも、しなくてもいいしするのもいいんだろうとは思ってる。

練習

単純にそもそもの目的やねらいを焦ることなくどっしり構えて主体を自分に置いて、そんで今なにをするときなのかを考えたりとか片付けられることは先送りしないだとか、根っこでどうしたかったりどうありたかったりするのかだとか見返して過ごしたい。

 

いまいえりこ議員が批判なき政治ってスローガン掲げてた頃、

「批判」のことを「わるぐち」のニュアンスで認識してる層がいるっていう言説をよく目にした。

たぶんもしかすると、その捉え方もあながち間違いではないのかなって思う。

 

自分に対する反論や同調できない考え方を見かけたとき、さも自分が正義であるかのように、悪と対峙してるような心持ちになってないだろうか。

今まで批判や指摘だとされてきたことが変質してきてるやうな気もする。僕の見る狭い範囲の中では。

みんな自分を守ることに必死だっていう風潮の中で(そうであったとしても、そこだけに夢中になるほど)その気になって、

なにか言われると存在ごと否定されてるように思えてたり。とかないかな。

非を認める、ってほど大げさなことをする必要はないと思う。

間違ってたと思うのならそこを修正したらいいし、間違ってないと思うのならその根拠を添えて示したらいいし。ごめんなさいならごめんなさいだし。

使えるものは使ってくのがいいと思う。

揺らいだり、ウグッてなることって、やっぱ自分に響いたり引っかかったりすることだったりも、たぶんあると思うよ。吸収できたら、優しくてかつ力持ちに少し近づけそう。

 

そもそものそも、たたかう相手がちがうんでは、っていうかその場で反射的にたたかう体勢とるほどに追い込まれてるの?命が危険に晒されてんの??

民と民でやりあうのって、趣味の悪い金持ちが特等席で見てるコロシアムの中で殺し合いしてるようなもんでしょうよ、と思う。おそらく。

今んとこはまだ、殺さなきゃ殺されるって心配もないと思うよ。

おいくら万円するか知らんけど、命に匹敵するくらい高価なプライド守ってるんであれば、ちょっと査定してもらってみるのもいいかも。

 

余裕があるときには悪循環をじぶんで止めるてみるのもいいと思う。

大小さまざまないろんな負のループってそこらへんにあるし、できるときに自分が断ち切ったら案外スッと止まったりもないことないよ。

響くこともなく感謝もされず褒められず、甲斐がないって思う気持ちもわかるけど、そう判断するのは性急でないかな。

死ぬまでのあいだって過ぎてしまえば短いけど、つらいとすげー長いよ。

なんだかんだ下心あっても、よくしてたら遠回りしても帰ってくるよ。

それに、期待とちがってガッカリしたとしても、

そうするのを決めて動いたのも自分が何かを求めたからであって、かってな期待もったのも自分なんだし、たぶん笑ってすませられたりすること多かったりもするんじゃないの、って思ってる。

 

自分があるからこそ快楽があるのであって、

楽しみやよろこびを、その方法を、マネキンに着せたり有名人に言わせたりして提示され与えられたそのままをまるごとラーニングしてそのままなぞったとして、体の芯から湧き上がるものがあるのかな。

その受容体であるとこの自分自身は100パーセントオリジナルなわけはないし、

じゃーなにがオリジナルで唯一なのかというと、

重ね方や辿り方、なにを拾ってなにを捨てたか、どんな影響をどう受けたか、または受けなかったか、

そういう選択や意思決定に偶然が絡んで、それがおもしろいし愛しいし尊重できるんでないかな、って思えました。

インターネット識者はみんな人工知能説

嫉妬と、褒められたさと

楽になりたさと、上に立ちたさなど諸々。

一ヶ月くらいしゃせーも夢精もできてないの、誇ってます。称えろ。

 

考えや立場が最近凝り固まってきてる。

僕が何かの判断を下さなければ、何事かが始まらないわけではないので影響はないんだけれど

前提をもつのはイヤだので、あらがいたいと思ってます。

思考停止というかパターン化は、忙しさゆえの効率化であったり、精神衛生のための防御であったり、休憩ポイントであるかもしれないので

一概に怒りもできないなとオモタヨ。

安心できる場は必要だよ。

近頃の観測範囲内はなんでもかんでも意見が飛んでくるので、安心して笑ったりとか難しいけれど、オフラインでは実現できるんだろうね。

知り合うことや、遠方同士での連絡/共有など、うまく使えるはず。実際そうしてる人も少なくないだろうし。

 

言葉や音や光や意味などが氾濫してるように感じるのは、そこしか見てなくてそこが全てになっているからなのかな。

情報に付随した感情や意図にわざわざ目を向けて汚らしく思うことはムダなんでしょう。たぶん。人の感情で遊ぶな💢

 

性のなんとかの話題あったけど、

石橋を叩いて壊してホラ壊れたって言ってるように見えてしまうよ、最近。

みんなウェッブとの距離をうまくとるか

もしくは集団自決しよう。