正常の中に居ない自覚あるけどメッタメタにやられてみたくもある
同じ場に正義が少なくとも2つある
どの正義を掲げてる陣営にも、後ろめたいことだとか私利私欲というやつも含まれてて当然だと思うけど、まな板の上にのってる題材に関してそれらが影響されるべきではないと思っちゃう。
○○は信用できる/できない人だって思う感覚
あの人が言うことは〜、あの人が言うなら〜
っていうの、効率だとか理には叶ってるんだろうけど、意見だとか主張は発言者に帰属すべきでないと思ってる、今は。
大抵その勘は当たっているんだろうけど、疑ってみることを忘れてはいかんのでは?って。
勢いのまま突き進むことってこわいよ。
相手をねじ伏せた側が正義になるのはそうなんだろうけど、
時代の指針になるってことであって、個々人が侵されることはあってはならんのではないかなー。
今のベターって今にしか通用しないかもしれないのに。
誰かの思う正しさってその当人からしたら正しいんだし、
間違ってるって批判することも正しくあるし。
自己責任だとか個人主義になってきてる感を昨今おぼえてるけど、
ほんとに勝ち続けなきゃまともに生きられなくなるのかもね。
公共だとか福祉だとか、そのうち完全なハリボテになるのか
もしくは反逆者は残存して戦うのか
知らんけど。
セーフティネットっていうのは、
もし自分の身近がそうなったら
っていう思いを持ってしたほうがよいんではないのかに。
メンタルや根本がおかしい僕は
弱者はどうせ生きづらくて、優勢や標準より労力がいる人生なんだから早めに淘汰されたほうがいいんでは。って思ってたけど、
そうでもないと思えるようになってきたよ。
ズレを減らしたいので、整骨キボンタ
人との距離の測り方。
自分のいる社会の中で、自身はどういうポジションに居るのか。
を把握するには
標準・普通 を学ばなければならない
のかもしれないなと思った。
「普通」であること
ってのは、指標 だとか 目標 であるのかな。
世間では
普通がいちばんむずかしい
とか
普通じゃつまらない
とかいう言葉が目立って見えるけど、
たぶんこの2つの指してる「普通」って
ちがうんだろうね。
良く言うのと悪く言うのでは意味が変わるもんね、当たりまえだけど。
今回指してるのは良い意味での普通のことで、
それはやり方であるとか、在り方であったり
こうするんだよっていうお手本なのかなって。
そう思いました。