ppummu’s diary

鹿路悠香です

練習

単純にそもそもの目的やねらいを焦ることなくどっしり構えて主体を自分に置いて、そんで今なにをするときなのかを考えたりとか片付けられることは先送りしないだとか、根っこでどうしたかったりどうありたかったりするのかだとか見返して過ごしたい。

 

いまいえりこ議員が批判なき政治ってスローガン掲げてた頃、

「批判」のことを「わるぐち」のニュアンスで認識してる層がいるっていう言説をよく目にした。

たぶんもしかすると、その捉え方もあながち間違いではないのかなって思う。

 

自分に対する反論や同調できない考え方を見かけたとき、さも自分が正義であるかのように、悪と対峙してるような心持ちになってないだろうか。

今まで批判や指摘だとされてきたことが変質してきてるやうな気もする。僕の見る狭い範囲の中では。

みんな自分を守ることに必死だっていう風潮の中で(そうであったとしても、そこだけに夢中になるほど)その気になって、

なにか言われると存在ごと否定されてるように思えてたり。とかないかな。

非を認める、ってほど大げさなことをする必要はないと思う。

間違ってたと思うのならそこを修正したらいいし、間違ってないと思うのならその根拠を添えて示したらいいし。ごめんなさいならごめんなさいだし。

使えるものは使ってくのがいいと思う。

揺らいだり、ウグッてなることって、やっぱ自分に響いたり引っかかったりすることだったりも、たぶんあると思うよ。吸収できたら、優しくてかつ力持ちに少し近づけそう。

 

そもそものそも、たたかう相手がちがうんでは、っていうかその場で反射的にたたかう体勢とるほどに追い込まれてるの?命が危険に晒されてんの??

民と民でやりあうのって、趣味の悪い金持ちが特等席で見てるコロシアムの中で殺し合いしてるようなもんでしょうよ、と思う。おそらく。

今んとこはまだ、殺さなきゃ殺されるって心配もないと思うよ。

おいくら万円するか知らんけど、命に匹敵するくらい高価なプライド守ってるんであれば、ちょっと査定してもらってみるのもいいかも。

 

余裕があるときには悪循環をじぶんで止めるてみるのもいいと思う。

大小さまざまないろんな負のループってそこらへんにあるし、できるときに自分が断ち切ったら案外スッと止まったりもないことないよ。

響くこともなく感謝もされず褒められず、甲斐がないって思う気持ちもわかるけど、そう判断するのは性急でないかな。

死ぬまでのあいだって過ぎてしまえば短いけど、つらいとすげー長いよ。

なんだかんだ下心あっても、よくしてたら遠回りしても帰ってくるよ。

それに、期待とちがってガッカリしたとしても、

そうするのを決めて動いたのも自分が何かを求めたからであって、かってな期待もったのも自分なんだし、たぶん笑ってすませられたりすること多かったりもするんじゃないの、って思ってる。

 

自分があるからこそ快楽があるのであって、

楽しみやよろこびを、その方法を、マネキンに着せたり有名人に言わせたりして提示され与えられたそのままをまるごとラーニングしてそのままなぞったとして、体の芯から湧き上がるものがあるのかな。

その受容体であるとこの自分自身は100パーセントオリジナルなわけはないし、

じゃーなにがオリジナルで唯一なのかというと、

重ね方や辿り方、なにを拾ってなにを捨てたか、どんな影響をどう受けたか、または受けなかったか、

そういう選択や意思決定に偶然が絡んで、それがおもしろいし愛しいし尊重できるんでないかな、って思えました。