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鹿路悠香です

自分の存在は認めてんだけど、自分の思考だとか感情や反応を疑うクセがついてきてると思いきや、それが正しく行われてないのにも関わらずそれに凝りすぎてて視野が狭まってきてる感を覚えた。

1人で野球やってる雑魚ピッチャー感ある。

やっぱ一人の人間の記憶の引き出しから適したものを引っ張り出したりだとかとかの処理能力って、高みを目指すことはできても天井見えてるよね、って思った。

止まったり戻ったりするにしろ、生きることは死ぬまで続けていくんだけど。

 

人を尊んだり敬ったりすること

それにとらわれ過ぎないこと

を基礎に置いて外界を認識したい。

あとは過信とか驕りとか、すぐ出てくるし。

愚かなものどものせいにしたがってしまうけど、

愚かなものではなくて

複合的に構成されて表出したものを愚かと認識(評価)した事象

のことだし、たぶん他者を自分より下に置きたがる欲求が作動してんだろなって思う。クソでしかない。

 

自分にできうることなんてものは本当に

自分をどう動かすか以上のものでないのはわかってるつもりなんだけど、

本心というか芯から納得や根付きがなってない。まだまだ。

 

胃の痛みも、その原因のその原因のその原因など点検してみるものの

最近はわっかんなくてなんもかもの発端を生存本能からくるものだってことにして納得させてる。

こんなふうなときってやっぱ、

目の前のことに集中しろ

の一言がほんとにそれなんだろな。ハイ。

 

快適な日常を過ごすことを阻害してるのって、

胃の痛みをもたらす外界ではなくって、

胃の痛みを覚えてそれに囚われる自分のステージの低さなんだろーなー

根性論っぽさあるけど、わからん。今日はヤメる。

自罰的になったってそれすなわち克服ではないんだもんな。

我慢する対象を選ぶことだとか、人を頼る場面だとかがわからなさ過ぎてんじゃねーかなみたいな。わからん。

人と話そう。なの?